CONVERSATION #5(井口寛、田中教順)

20.09.15

録音技師の井口寛さんは、ミャンマーの音楽を記録するためのさまざまな活動に力を注がれています。まずは、伝統音楽の録音アーカイブプロジェクトに携わり、これまで1000曲あまりの音源制作に取り組まれてきました。またその後、ミャンマー北部に住む少数民族ナガ族の巨大なドラム作りに関する映像記録と、村のさまざまな音を収録したフィールド・レコーディング集を制作されました。また、ドラマーの田中教順さんはこの数年間ミャンマーに通い、ミャンマー国立文化芸術大学で伝統音楽楽器のサインワインの演奏法について研究を続けています。今回は田中さんに立ち会ってもらいながら、井口さんにそれぞれの活動やミャンマーの音楽をめぐる価値観や音楽の保存についてお話を伺いました。

インタビュー

井口寛(サウンドエンジニア)

田中教順(ドラマー、東京芸術大学音楽環境創造科教育研究助手)

聞き手:居原田遥(東京芸術大学グローバルサポートセンター特任助手)

まずは井口さんがミャンマーを訪れたきっかけを教えてください。

井口: 2012年に、東京でミャンマー出身の青年に出会ったことがきっかけです。彼は音響技術を勉強するために音響関係の会社でアルバイトをしていました。彼と出会う前はミャンマーについてあまり知らなかったのですが、彼からいろいろな話を聞いているうちに、強い関心を抱いたんです。そして翌年の2013年の1月に1ヶ月間ほど旅行でミャンマーを訪れました。この旅行は個人的なものでしたが、録音技師という職業柄、あわよくば現地の音楽を録音したいという思いがあって録音機材をたくさん持っていったんです。ただ、具体的な計画や知識はなく、現地に着いてから東京で知り合った青年のご両親を頼りに、ヤンゴンで音楽家を探し始めました。そうこうしているうちにミャンマー国立文化芸術大学(NUAC)には日本語を話せる音楽の先生がいるとの話を聞きつけけたんです。それがディラモーさんです。そして、NUACにアポなしで訪問しました。

そうだったんですか。ヤンゴンの中心地からNUACは結構距離がありますよね。

井口: そうですね。その時はNUACが国立の大学だということや、そもそも大学だということすらもよくわかっていなかったと思います。とにかく、そんな人がいるなら会いにいこうと、チャンスにすがる思いでNUACに行ってみました。けれど、目当てのディラモーさんは不在で、窓口になってくれた人にはその場で門前払いされてしまいました(笑)。考えてみれば当然ですよね。例えば、ミャンマー人が東京芸大に突然やってきて日本の伝統音楽を録音させてくださいとお願いしても、なかなか難しいと思います。結局、大学では収穫が無かったのですが、帰路の途中でディラモーさんから電話をもらいました。「今から会いましょう」という話になり、彼がヤンゴン市街まで出向いてくれたのです。彼に、ミャンマーの伝統音楽に興味があるから、録音をさせてくれる音楽家をアレンジできないかとお願いしてみたところ、即答に近いようなお返事で「いいですよ」と言ってもらえました。その足でNUACの近くにある彼のスタジオに連れていってもらったんです。みなさんも以前、一緒に行きましたよね。

井口: そのスタジオで録音をすることになり、ディラモーさんは一週間程でたくさんの音楽家との録音の機会をアレンジしてくれました。その時、はじめてサインワインの演奏を生で聞いたのですが、強烈なインパクトを受けて、一気にミャンマーの音楽にハマっていきました。音楽だけでなく、出会う人たちからのインパクトも大きくて、録音にのめり込んでいったと思っています。この時の経験が今に至るきっかけですね。

そのときからミャンマーの音楽の100曲の録音に取り組むことになったのでしょうか。

井口: この1月の旅行の時には、ミャンマー音楽を100曲録音してライブラリーを作りたいという計画を聞いただけで、一旦日本に帰りました。もう一度個人的にヤンゴンを訪れることは難しいので、日本で一緒にこの活動を応援してくれる人を探してくると伝えて、日本に戻ったんです。日本に戻り、以前から付き合いのあったレコード会社、エアプレーンレーベルにこの企画への参加を打診しました。話を聞いてくれた代表が「やろう!」とその場で決断してくれたので、4月にはミャンマーに戻って、100曲の録音プロジェクトに取り掛かりました。

これまでのミャンマー音楽の音源や録音物にはどのようなものがあるのでしょうか。

井口: 誰でも聴ける録音物としては、日本のキングレコードが制作した音源や、アメリカのスミソニアンフォークウェイズが制作した音源があります。録音物自体はミャンマー国内にはいくらでもありますが、国外に出回っている音源は限られていますね。ただ、何百曲という単位でまとめられ、一般の人が聴くことが出来る録音物やアーカイブに関しては聞いたことがありませんでした。

井口さんの録音のプロジェクトは、結果的には100曲以上になっていったんですよね。

井口: はい。ですが、この2013年の4月から5月の滞在の録音は100曲で終わっています。だいたい40日間くらいの期間でした。

40日で100曲録音し終えたんですか。ずいぶんと早いですね。

井口:はい、100曲の録音のための期間としてはとても短いと思います。そして、その100曲の中から選曲した3つの作品集を、エアプレーンレーベルからリリースしました。ただ、ミャンマー側としてはこの企画を膨らませていきたいという思いがあったようで、時間が経つにつれて300曲、500曲と目標が増えていき、最終的には1000曲にしようと大きな企画になりました。いかにもミャンマーらしい展開ですよね。

結果的には1000曲収録されたのですね。

井口:実際には1100曲ほど録音しましたが、著作権の問題で使えない曲がありました。古典の楽曲は、いわば著作権フリーなので許諾がなくても使えますが、「カーラボー」と呼ばれる流行歌謡の楽曲には、作曲者が存命の曲や、作曲者は亡くなっていてもその家族に許諾を得なければ使えない曲が多いのです。日本の著作権のルールとはちょっと違います。当事者に直接会いにいって、謝礼をお支払いして許諾のためにサインを貰うプロセスが必要になります。今回の企画でも、チームのメンバーが曲ごとにこのステップを1つずつこなしていきました。その過程で許諾が得られなかった楽曲があって、結果的には1100曲程録音したうちの1000曲がライブラリーになる予定です。このライブラリーはもうすぐ完成します。

録音プロジェクトのなかで、忘れられないエピソードを教えてください。

井口: やっぱり、全てが手探りだった2013年4月の最初の録音が忘れられない思い出です。言葉も通じないミャンマー人のおじいさんの演奏家と、夜中の3時まで録音をしたこともあります。英語は通じないので、身振り手振りでコミュニケーションをとりながら、進めていきました。音楽はナッという精霊信仰に関わるもので、演奏家から昼間だとテンションがあがらないから夜中にやりたいと言われ、深夜0時すぎからスタンバイして、録音をはじめたんです。あと、これは「ヤンゴンあるある」なエピソードですが、当時の僕はミャンマーの頻発する停電事情を知りませんでした。もちろん電気がなければ録音はできないので、停電すると、全ての作業がストップしてしまいます。そして、録音だけじゃなく、エアコンが止まるんですよね。4月はミャンマーの夏にあたり、一年のうち最も暑い時期なので、スタジオはまるでサウナのようになります。長ければ、そこで1時間から2時間のあいだ、電気の復旧を待つわけです。多い時には1日に何度も停電があり、そうなると集中力が持たなくて、暑さで頭が朦朧としてきます。マイキングをどうするとか、録音方法などの技術的な難しさよりも、体力的にキツかったということがとても印象に残っています。こういったエピソードを話し始めると止まらないほど、最初の録音は思い出深いです。今後も絶対に忘れられないと思います。

田中:僕もミャンマーで演奏技法を習っていますが、同じく本当に手探りで、最近になってようやくなにかがわかってきたような思いです。演奏を教えてくれる先生は譜面を使わず演奏しますが、僕はそれを見様見真似でその場で習っていきます。その中で、例えば、まずフレーズの「あたま」がどこかわからない。

井口: ああ、なるほど。

田中:「ここが一拍めかな」と思いながらそのまま真似て演奏を続けていると、信じられないところでアンサンブルの太鼓がバゴーンとなるようなことがあります。段々とそのサイクルにパターンがあることがわかってきます。ただ、演奏を習い始めた最初の頃には、音楽をやっていて天地が引っくり返るような、重力がわからないような、そんな経験をしました。

井口: 例えば、田中さんだとミンミンスーから教わっていると思いますが、彼も英語があまりできないですよね。演奏を習う時にはどのような方法でコミュニケーションをとっているんですか。

田中: それはもうフレーズを実演してもらって、それを見て習う、「できた!」、その繰り返しです。

井口: 反復して覚えていくような感じですね。

お二人はミャンマー語を話せるのでしょうか。

井口: 7年間通い続けて、超最低限のミャンマー語しか話せません。「もう1回」、「ちょっと待って」、「だめだ」、「良いよ」とか、あくまでもカタコトです。さすがに最近はちゃんと覚えようかとも考えています。

田中: 最近では、ビルマ語の筆談が少しだけ出来るようになりました。例えば、サインワインのそれぞれの太鼓に対して、音域によって指の使い方が違うことに気がついた時、会話では聞くことができないので、筆談で聞きます。紙にサインワインをまるで描いて、どの指があてはまるのか、その答えを紙に図を含めて描いてもらうんです。ただ、描かれた図やビルマ語が読めなくて、解読に半日かけたこともたくさんありました(笑)。

井口:結構アナログな方法ですね(笑)。

映像記録の「ナガのドラム」を制作されたきっかけを教えてください。

映像記録「ナガのドラム」は、井口さんが撮影・制作された北西部ザガイン管区のナガ族の村人たちによる巨大な太鼓作りの映像記録。村人たちが森の中で20メートルほどの大木を切り倒し、その場で太鼓に加工し、さらには森から村まで、村人総出で巨大な太鼓を転がしながら運んでいくというもの。

井口:はじめてナガを訪れたのは2015年です。このきっかけも偶然の出来事でした。当時、1週間くらいの予定で録音の仕事があってヤンゴンに行ったのですが、その仕事が突然キャンセルになってしまい、スケジュールにぽっかり空きが出来ました。ちょうど同じタイミングで、日本の番組制作会社からナガで番組を制作したいから一緒に行かないかと誘われていて、当初は仕事の予定があったので厳しいと思っていたのですが、キャンセルになったおかげで、タイミングよくナガに行けることになりました。当時はナガについてあまり知らずに取材の音声マンとして同行しました。それが最初の機会で1週間くらいの滞在だったと思います。

その後、どのような経緯で映像記録を制作されることになったのでしょうか。

井口: はじめてナガを訪れた時、とても不思議な場所だと感じたんです。ミャンマーって、街に笑顔が溢れていて、人懐こい人柄の方が多いじゃないですか。でも、ナガはまったく雰囲気が違って、村の中で異質な外国人が歩いていても誰一人近づいてこなかった。違う時間軸に迷い込んだような不思議な空気を感じました。その時、番組の取材対象の方の家で半日程過ごさせてもらったんですが、その家には電気がなく、囲炉裏を使って料理をしながら生活していました。囲炉裏以外の明かりもなく、外が暗くなったら寝て、朝は4時くらいに起き出して、息子や客人らを見送るためにその場で鶏をしめて朝食を作ってくれました。僕が知っている日本の日常とナガの日常の差に衝撃を受けて、ここにまた来たいと、滞在中に考え始めました。取材対象だった方は僕より少し若い青年で、彼に個人的に再訪したい旨を伝えて、一旦村を去りました。そして日本に戻ってすぐ、ナガの音楽調査の計画を立てました。国際交流基金に助成金の申請をして採択して頂けたので、翌年には1ヶ月程度、再びナガを訪れました。

井口さんが滞在した村の日没の様子。

映像記録の「ナガのドラム」は、ジャングルの大自然や高台にある村の景色をとても美しい映像として捉えているところが印象的でした。もともと映像制作もされていたのでしょうか?

井口: いや、映像制作の経験はまったくありません。実はカメラすら助成金を得てナガに行くことが決まってからはじめて購入して、渡航する直前に開封して少し練習した程度でした。滞在中の1ヶ月間は手探りで、撮影も練習しながら進めていきました。

村人が森からドラムを運ぶシーンがありますよね。ドラムを運ぶ様子がとても迫力ある撮り方をされていると感じました。井口さんはこの巨大な大木のドラムの上に乗っかっていて、井口さん自体が運ばれながら撮影されていると気がつきました。

井口: あのシーンは運搬経路に生えている木によじ登って撮影をしました。ドラムが巨大なので、人の顔を捉えるためにはドラムの真上にポジショニングする必要があったんですよね。当時の取材では、帯同してくれたガイドと折り合いがつかず、思うように取材が進みませんでした。手応えがないまま2週間が過ぎた頃、雇っていたバイクドライバーに、俺の村なら協力できるかもしれないと声をかけてもらって、そこからドラム作りの取材に繋がったんです。ドラムの制作中はガイドは村に残し、僕だけ制作現場の森の中へ毎日通っていました。言葉が通じない分、黙々とカメラを回す日々が続きましたね。結果的には誰にも気兼ねせず、あらゆるアングルの撮影を試すことが出来たし、撮り方の実験をしながら、じっくり撮影することができました。思い返すと当時のガイドのおかげで、ドラムの制作現場を終始抑えることが出来たんですよね。

記録映像のワンシーン。巨大なドラムを村人が運ぶ様子。

記録映像はミャンマーを含め日本の各地でも公開されていると思いますが、どのような反響や感想を受けますか。

井口: 編集には賛否があって、厳しい意見をもらうこともあれば褒めて頂くこともあります。ミャンマーでは面と向って批判されたことがないかもしれません。貴重な映像ですねと言ってくれる方が多いです。

田中: 僕はまだ完成作を見ていないのですが、六本木で開催されたイベントの時に上映されていた断片的な映像は拝見しました。また音源記録の方の「VOICE OF NAGA」のアルバムは聴いています。

「Voice Of Naga」は、ナガの生活音から、記録映像にもなった巨大ドラムの音、村に伝わる歌など全92トラックを収録したフィールド・レコーディング集。歌や音楽だけでなく、自然音や生活音まで聞くことができる膨大な録音音源からは、ナガ族の村の臨場感が伝わってくる。

今後のミャンマーでの活動計画はありますか。

井口: そうですね。コロナウィルスの影響で、直近で予定していたことを実現するのがしばらくは厳しそうだと思っていてありあまっているこの時間に日本で出来ることを考えながら進めている状況です。具体的には、自分が個人的に録音してきたミャンマー音源を使って、リミックスワークの制作を進めています。また、ミャンマーの若い音楽家の作品を僕のレーベルで制作して発表する企画も進めています。このためのやりとりは遠隔でも出来るので、ミャンマーの音楽家たちとメールで連絡を取り合いながら、デモを送ってもらうなどのかたちで進めています。

これまでのミャンマー音楽の需要は日本国内あるいは世界でどんなシーンにみられるのでしょうか。

井口: 正直、リミックスワークの需要はあまり無いかもしれないですね。でもこの企画には別の狙いがあって、ミャンマーの音楽家へ制作スタイルの提案ができるんじゃないかと思っているんです。ミャンマー人が外国のアーティストとコラボレーションした作品を聴いて、ミャンマー固有の音楽を聴いたときのようなインパクトを受けたことはありませんでした。国際交流事業って、多くの場合は凄く労力とお金がかかるし、時間の制約も生まれるから新しいものを生み出すのは難しいですよね。でも、西洋マナーの音楽のあるパートをミャンマーの楽器で演奏したようなコラボレーションではなく、例えば、AとBを足してCが生まれるような試みを目指したいと思っています。導入として取り組みやすい音楽はDTMを使った音楽なのかなと思い、ヒップホップのトラックメーカーに声をかけています。

タイのモーラムもクラブシーンで扱われたりしていますよね。

井口: そうですね。モーラムはタイ国内外で再評価されていますよね。ヒップホップのアーティストとは、伝統音楽の音色やメロディを取り入れた作品を作れないかと考えながら取り組んでいます。ただ、正直なところ、難しさも感じています。互いの価値基準のすり合わせが難しいですね、自分の価値観を一方的に押し付けないように心がけています。

田中さんは演奏を学ばれていますが、ミャンマーの音楽をどのように自分の演奏活動に取り入れているのでしょうか。ミャンマーの音楽をはじめて、なにかこれまでの演奏や音楽活動に変化はありましたか。

田中: 自分の音楽のなかで、決してミャンマーの音楽性をウリにしている訳ではないのですが、少なからず影響は受けていると感じています。特に、リズムの感じ方が変わってきたんじゃないかなと。ただ、例えばミャンマーのリズムをドラムで叩いてみるような単純なものにはしたくありません。外国を訪れて表面だけのそれっぽい音楽を作ることは最悪だと考えていて、そういう例を見たこともあるので、丁寧に時間をかけて、自分のなかにある影響の結果を出していきたいと思っていますね。

ミャンマー国立文化芸術大学で演奏している田中さん

井口: 今はコロナ禍の中で何が出来るかを考えますね。少し前までは、予算の獲得も含めて今年の計画を具体的に立てていたのですが、その実現もちょっと怪しくなってきました。今後の見通しや数年先の計画について、はっきりとした回答を誰も言えない状況ですよね。ただ、先ほどの話の続きになりますが、5年や10年かけてやりたいことは、この状況でも変わりません。数年先を見越した展望としては、ヤンゴンで音楽プロダクションみたいなものを作りたいと思っています。音楽プロダクションというと曖昧かもしれないのですが、いつもミャンマーでもどかしく感じていたのは、伝統音楽を気軽に聞ける場所がないことです。僕のような旅行者が音楽を聞きたいと思った時に、行き当たる場所は観光客向けのレストランやホテルのラウンジに限られるし、なにより定期的に演奏会をやっている場所がないんですよね。まずはそういった演奏会を企画する。そして、先ほどお話したように現地の若者たちと協働しながら新しい音楽を制作する。あとは、これまで続けてきた伝統音楽の録音もこの中で続けていけるような、そんなプロダクションを作りたいと考えています。今はその拠点となるスタジオ作りを構想しています。実はスタジオ作りは、2013年ごろから考えていたのですが、当時は仕事としては成立しないと思っていました。しばらくスタジオについて意識していなかったのですが、1000曲の録音がひと段落して、その後どうするかを考えた時に、ミャンマーで活動を続けられたらいいなと改めて思い始めたんです。そして音楽プロダクションやスタジオ作りの思いが再熱して、今に至ります。このスタジオでは、コンサートやワークショップ、トークイベントなどの開催と、そのライブ配信も出来るようにしたいと考えています。多目的な活用方法に対応できるスタジオ作りを目指します。少し遠い未来を見越してやろうとしていることは、音楽プロダクションを作って、人の交流の場を作るということですね。

確かに思い返してみると、ヤンゴンには、私たちのような外国人をはじめ、人々が余暇として気軽に音楽を聞くことができる場所はほとんどないですね。ライブハウスとか。レストランもいくつかしかないような気がします。ヤンゴンではあんなに音楽の個性というか、我が強いのに、不思議です。

井口: ただ、サインワイン楽団をライブハウスに閉じ込めてしまうという点は、悩みどころではありますね。以前、みなさんも一緒に、スーさんに連れていってもらったようなお寺のお祭りで、音楽に触れる視聴体験が貴重だという感覚もよくわかります。ただ、ミャンマーの固有の音楽が聞きたいという旅行者ってたくさんいるわけじゃないですか。僕の友人にもそういう方はたくさんいます。

NUACのスーザーザーさんから、伝統音楽を教えるにあたって資料や教材が足りないことの問題意識と、教材のための音源が作りたいという要望を伺いました。そして昨年は井口さんにも協力していただきながら、NUACの学生たちと一緒にスタジオの使い方や、実際に伝統音楽を音源化してみる録音実習を行いました。ミャンマーの音楽の録音物やアーカイブはどのような状況なのでしょうか。

井口: ミャンマーの録音物自体はたくさんあると思います。例えば、Youtubeには画像付きの昔の音源動画が無数にアップロードされています。僕たちの録音の時にも、音楽家がフレーズを忘れてしまった曲や、あるいは初めて演奏する曲でも、Youtubeで古い音源を探して、それを聞きながら演奏している光景をよく見かけます。音源自体はたくさんあるけれど、それが一つのまとまりになっていない。そしてスーさんが言うように教材としてぴったりなものはないんでしょうね。

整備や整理がされていない状況ということですよね。ミャンマーの映画でも、同じような印象を受けたことがあります。

井口: 1000曲のプロジェクトも録音を終えて、現在はストリーミングで聴ける状態になっているんですが、それだけではなかなか他の用途に活かせません。なので、ウェブサイトを立ち上げて、音源に加えてそれぞれの曲の情報も掲載する一つのデータベースのようなものを作ろうとしています。作曲者や歌詞、できれば譜面まで閲覧できるようなものです。ただその作業が2年ほどかけても全然進まないんです。録音自体や、例えばその音質の良し悪しなんかより、このアーカイブの作業のほうがずっと重要だと考えているんですが、なかなか難しいですよね。しつこく重要だと言い続けて、やり続けていきます。

田中: ミャンマーにはじめて行かれたときからずいぶんと時間がたっているかと思うのですが、なにか印象が変わったことはありますか? 国もそうですし、音楽に対しても。

井口: 僕自身は演奏しないので、音楽性についてつっこんだ印象の変化はないのですが、人の印象は変わりました。ミャンマーに関わりはじめた時には、何かお願いをすると大抵の人が、笑顔で気軽に引き受けてくれる人柄の印象を持っていたのですが、しばらく協業を続けていくうちに、印象が変わりました。なんというか、そんな表面的なものではないかな、と思っています。説明しづらいのですが、笑顔で「いいよいいよ」と言ってくれても、内心では色々と悩んでいたりする。それを見越して動かないとだめだと感じています。この国でのコミュニケーションは、日本人同士の行間を読むようなコミュニケーション方法は通じないので、はっきりと言語化したやりとりと、シャイで隠してしまう部分を前提とする必要があるのかな、と思い始めています。

田中: 僕は「明日はレッスンをするからこの曲を聞いておけ」と言われて翌日になって「今日レッスンなしになったから」みたいな、突然の予定変更みたいな経験がガンガンありますね。

井口: それもありますね(笑)。

田中さんはどうでしょう。これまでの経験の中での変化はありましたか。特に音楽的なものの印象についてどう考えていますか。

田中: 音楽的な印象はとても変わりました。ミャンマー音楽を聴きはじめたばかりの頃は、「これ、合ってるのか間違えてるのか全然わかんないなあ」みたいなことを感じてしまう部分もありましたから。ミャンマー音楽のなかで共有されているルールは、とても独特です。リズムの感じ方、強拍というか、強調したいところも今まで聴いてきた音楽とは違う。西洋音楽やアフリカ由来の黒人音楽をベースにしたポピュラー音楽などの我々にとって身近な音楽とでは、大事にされているルールや、価値観が全く違うものだなと思っています。

田中さんが楽器を習っているャンマー国立文化芸術大学の先生方。

井口: それは僕も感じますね。重視されている価値観が違う気がします。録音をして、ミックスをしていると、ミャンマーの音楽家たちから、「ボーカルの音量をあげろ」とよく言われるんですよ。ミャンマーでは声がよく通る歌手がいい歌手だという価値観があるみたいです。いかに綺麗な声をだすかより、いかに遠くに聞こえさせるかのほうが、良し悪しの一つの基準なのだと思います。だから、声はガラガラなのにめちゃくちゃ大声で歌うおばちゃんの歌い手さんがいたりします。

それは面白いですね。完成する音源にもそれが反映されるわけですね。

井口: そうですね。歌のボリュームをあげることの他に、サインワインの合奏だと、サインワインとネーという笛がメインの楽器にあたり、その二つが大きく聞こえるようにしてくれと言われます。昨年、みなさんとも一緒に、スーさんのナビゲートで、サインワインのコンサートに行きましたよね。その時にそのボリュームの感覚を感じませんでしたか。

田中:そうでした(笑)。とんでもないボリュームでしたよね。

井口: ミャンマー音楽では、各楽器の繊細なバランスよりも、歌やメイン楽器を遠くへ聞かせることに重きを置いてきたんでしょうね。

井口さんの活動には新型コロナウィルス感染症拡大によるあらゆる影響があると思うのですが、どのようなものがありますか。

井口: 移動が制限されたので、ミャンマーでの仕事はほぼなくなって、その時点で50パーセントの仕事がなくなっています。また日本国内の仕事は、スタジオでのレコーデイング、コンサートや企業イベントでのPAの仕事、自分のレーベルの仕事に分けられますが、基本的に現場での仕事がほとんどなくなってしまった状況です。日本にいる時の収入源はそっちのほうが多かったんですが、具体的には90パーセントほどなくなったので、収入の面はほぼ壊滅的ですね。ただ、さっきの話に通じるところがあって、これまでの自分の仕事は、お金を稼ぐものと、お金を切り離してどうしてもやりたいからやるという活動とを、区別しながら取り組んでいました。お金が出ていく一方の活動でも、どうしてもやりたいと感じていれば、どんどんやろうというような活動もありました。しかし今は、収入を見込める仕事が激減したので、今後の仕事の仕方を考えることを余儀なくされています。自分で仕事を作りだして、いかに収入に繋げていくか模索しています。現場の仕事も、ここ1年2年で戻ってくるかもしれませんが、そこに戻るよりかは、やりたいことで収益を生んでいくような方法を考えなきゃだめだなと思っています。

そうなんですね。ただ私は個人的に「いまだからこそできること」を前向きになることに難しさを感じています。少なくとも考えなければならないし、実行に移していく必要性は感じているのですが、なかなか良い方法が思いつかないです。

井口: なんとなくわかります。個人的には、オンラインの配信イベントにしても、1、2時間も画面を見ていられないんですよね。ZOOM飲み会も厳しい。音楽業界では、試行錯誤をしながら配信イベントを開催している人も多いですが、現状では厳しいものを感じます。どうしてもみたいものは大きめのテレビに接続して視聴していますが。とはいえ、これからなのかもしれませんね。

田中: 僕もいくつか配信型のイベントを見たんですけど、個人的にはあまり好きな感じではないなあ、と思ってしまって。いくつかそういうお誘いもあったんですけど、お断りさせていただいたんです。お金の問題も、もちろん実感として理解しています。ただ、こんなにも時間がありあまっているという状況を、むしろありがたいと考えるようにしています。普段だったらこんなにいろんなことを考えたりすることもできないので。なので、ものすごくドラム叩いています。

井口: 僕は一応、一年という区切りをおいていて、来年になっても状況が変わらず、あるいは悪化してしまうような状況だったら、全く違うことを考えなくてはいけないなと思っています。異業種への転職も想定しています。ただ今年一年はこれまで続けてきた仕事や活動を拡張させる方向で動くつもりです。とはいえ、限界はありますけどね。